谷中観音寺とは・・・

観音寺は徳川家康が江戸幕府を開いてまもない慶長十六年(1611)に創建され、延宝八年(1680)に神田から現在地に移転し、以来谷中の寺町の一角を形成しています。現存する築地塀は、幕末の頃に作られたもので、国の登録有形文化財に指定されており、谷中のシンボルの一つとして多くの方に親しんでいただいております。また、観音寺は赤穂義士ゆかりの寺と知られ、境内に四十七の供養等があり、「忠臣蔵」のファンの方など、数多くの方々が当寺を訪れています。

赤穂義士ゆかりの寺

赤穂あこう義士ぎし赤穂浪士あこうろうし)とは、元禄十五年(1703)十二月十四日深夜に主君しゅくんであった浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのりかたきである吉良上野介義央きらこうずけのすけよしひさの屋敷にり、主君の無念を晴らした(赤穂あこう事件じけん)元赤穂藩士四十七人の武士のことを指します。

赤穂義士四十七士の中に、近松勘六行重ちかまつかんろくゆきしげ(馬廻り役 二五〇石)と、奥田貞右衛門行高おくださだえもんゆきたか(孫太夫重盛 江戸武具奉行 一五〇石)という人物がいます。この二人は、観音寺第六世・朝山和尚ちょうざんかしょうの兄弟です。近松勘六行重が兄にあたり、奥田貞右衛門行高は弟にあたります。

当時、観音寺は寺号を改める前で長福寺と称し、六世朝山和尚はまだ文良という名で、五世朝海和尚について修行中の身でしたが、兄・行重や弟・行高の意をくみ、できるかぎりの便宜を計ったといい、観音寺内で義士たちの会合がしばしば開かれたと伝えられています。

義挙以来、観音寺は赤穂義士由縁の寺として広く知られ、四十七士慰霊塔が建てられました。今日に至っても義士の霊を弔う人や、『忠臣蔵ちゅうしんぐら』のファンの人、歴史好きの人など、数多く方々が当寺を訪れています。

築地塀

ついべいとはいわゆる土塀のことで、単についとも言います。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築はんちく工法で作られたものを呼びます。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。

観音寺の築地塀は幕末の頃に築かれたもので、当寺は観音寺の境内の東面と南面を囲っておりましたが、南面のみ現存しています。大正十三年(1923)に起こった関東大震災により一部倒壊しましたが、第一次世界大戦終戦から始まった戦後恐慌によって物資も少ない折、文化財保護の観点からも、できうる限り元の資材を使用して倒壊箇所が組み直されました。
その後、経年による細かな損傷は見られましたが、補修を重ね、江戸時代往時の姿を今日に残しています。

そうした、江戸時代から続く有数の寺町である谷中の当時の面影を伝え、歴史的景観に寄与するということから、平成十二年(2000)に国指定の有形文化財に登録されました。谷中、根津、千駄木の、いわゆる谷根千エリアの散策に訪れる多くの方に親しんで頂いております。